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野浦の春駒を元日に見に行ってきた

野浦トンネル

佐渡一周線の県道45号線沿いにある野浦という地域に、元日に春駒で門付けしてまわると昨年知り、新年早々に野浦まで車を走らせました。当館からは両津港まで行き、そのまま海岸沿いを南下しつつ道沿いをひた走ります。車でおおよそ50分ぐらいで到着します。このトンネルに描かれているのが春駒(はりごま)です。

春駒

こちらの地域の春駒は女春駒とも言われている、手駒という馬の頭の木型を持って面を被り、うちわ太鼓のリズムに合わせて舞うタイプで、相川地区にある馬の首にまたがるタイプは男春駒というそうです。江戸時代には正月の門付け芸として、全国各地にあったそうですが、現在では民俗芸能としてわずかに残っているだけだそうです。

女春駒

門付けというのは、家の玄関先で芸能などを披露し、祝儀をいただいたりすることを言います。

野浦春駒

野浦の春駒では芸能を披露し、口上を述べ、お祓いをしてから、お米とお年始(花代)をいただき、その家で振る舞う食事や飲み物をいただきます。

御年始

佐渡の春駒の他には、秋保の田植踊の春駒(宮城)、門前春駒(群馬)、一之瀬高橋の春駒(山梨)、郡上おどり春駒(岐阜)、白川村の春駒踊り(岐阜)、沖縄のじゅり馬(沖縄)があるそうです。

野浦春駒

この日は雨が降ったり、晴れたりと、不安定なお天気の中でしたが、衣装を濡らしながらも元気に門付けします。

野浦

野浦春駒

一軒づつ振る舞いがあるので、飲んで、踊って、食べての繰り返し。振る舞いの料理の気遣いが素晴らしく、寒いだろうと温かい汁物を用意してくれていたり、つまみやすい食べ物を用意してくれていたり、お腹がすくだろうとラーメンを用意してあったりと、各家々でのおもてなしが見られました。

野浦大明神

元日の朝8時より大明神でお祓いを受け、門付けがスタートします。来年はお祓いの時間を見計らって付いて回りたいと思います。

はりごま

野浦春駒保存会は彼らが小学校の頃に春駒を郷土の授業で習い、その学生さんたちが成人し、今こうして地域で守っているのです。脈々と受け継がれている伝統芸能ですが、人口が減少するに伴い危惧されるものがあります。

春駒

この日の野浦は若者も多く、小さな子どもたちも沢山いたので、この地域も安泰だなぁと思いきや、正月だから地元に帰って来たという家族連れだったようで、いつもはこんなに若い人がいないそうな。ぜひこの地域に戻ってきて、伝統を受け継ぎつつ、野浦が賑わうといいなぁと思いました。

春駒

なかなか見る機会がなかった野浦の春駒を撮影させていただきました。中にはお家に上がらせてもらって、門付けの風景を撮らせていただいたところもあり、野浦の方々、野浦春駒保存会の方々には大変お世話になりました。本当にありがとうございました。
地域の光を見せていただきました。また、来年も撮影出来たら幸いです。

当館から野浦への地図

農具を獅子頭とした日本でも珍しい新町たかみ獅子

新町たかみ獅子

10月16日の新町大神宮の縁日に開催される、新町たかみ獅子。
今年は頭(かしら)のお役目をいただきました。このたかみ獅子の頭役というのは、獅子の頭を持つ人ではなく、祭り運営に関わる代表のようなもので、祭りの段取り手配、当日の責任者、後片付けなど、結構大変なお役目なのです。こういった責任ある仕事をさせてもらうと、今まで見えなかったものが沢山見えてきます。地域の方々の支え、どんな商売をどんな方がされているのか、なぜこのお祭りをしているのか、獅子の中に入る仲間のことなど、沢山地域の勉強をさせていただきました。

佐渡島内には色々な祭りがありますが、代表的なものは「鬼太鼓」というものがあります。以前はこの鬼太鼓という伝統芸能を守っている地域が羨ましいなぁと思ったものですが、この新町たかみ獅子の良いところは練習なしで誰でも入ることが出来ること。とはいえ、女人禁制というお決まりの感じではあるようですけども。また、農具を使った獅子頭というは全国的にも珍しく、古くは伊勢の方から伝わったのではないかのこと。

以下真野町史下巻407ページ抜粋

1977年に復活された新町たかみ獅子。
新町には鬼太鼓はない。しかし、タカミ獅子という変わった獅子がある。タカミは竹箕(たかみ)であり、タカミともフジミともいう箕を三枚重ねて作った風変わりな獅子である。箕で作った獅子頭を使うのは、全国でも宇治山田市にある八つの神社の「おかしら神事」だけであろう。ここでは獅子を舞わせたあと、橋のほとりで焼くので毎年新しい頭を作る。しかしこの頃は連年使えるように木の獅子頭になったという。農具である箕を使ったのは、むろん豊作を祈る願いから始まったものである。
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃だったのかは不明である。慶長五年(1600年)に、伊勢の御師三日市太夫次郎によって皇太神宮が勧請されて「神明社」ができたと伝えられているから、大神宮の所在地である宇治山田の「おかしら神事」がとり入れられたことは想像がつくが、年代は全く不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。
復活したのは昭和52年10月16日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅65センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだったと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、30センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。
新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし10人余りの少人数で500戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克己や高橋宏一等数名が呼びかけて始まったのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。
昭和54年、氏子の家から古蚊帳を寄付してもらい、男女数10人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄付金で揃いのハッピを作った。祭りの当日は昔風の弓を張ったホロに、両方で70~80人の青年が入って獅子を舞わせた。舞う、といっても格別の芸をするわけではない。太鼓に合わせて町を練り歩き、戸毎にパクパクと獅子の頭を左右に振って簡単な所作をするだけである。しかし神主姿の者が獅子に先立って玄関でお祓いし、毎年図柄の違う獅子のお札を配布する。
獅子は8時半に神前でお祓いをうけて出発する。500戸の氏子を廻って神社へ帰るのが16時過ぎになる。天気がよければ土俵場の芝生の上でビールで乾杯する。54年のその時金子があいさつした中に「何より嬉しいのは、昨日まで知らぬ同志だった町の青年たちが、こうして獅子を奉仕するうちに心が溶けあって、明日から笑顔であいさつしあう仲になることです」ということばがあった。吉岡の青年たちが連帯感を求めて鬼太鼓を始めた気持ちと通うものがある。ひょっとすると、昔からの各部落の鬼太鼓も、単なる祭りの行事ではなくて、その根本には若衆仲間の連帯があったのであろう。
昭和55年に、新町のタカミ獅子には新しいホロができた。太鼓のリズムに合わせて、門ごとにパクパクと音を立てて祝福して廻るタカミ獅子は、こうして完成したのである。

抜粋終わり

こういった文献を読むと、なんだかとっても珍しく、ユニークな神事を我々は守っているのだと誇らしくなってきます。この新町には職人が集まっていて工芸の町でもあったことから、器用な方たちが、それぞれの技術を活かしながらこういったものを作り上げたそうです。

さて、新町まつりは毎年10月16日の朝8:00ぐらいに新町大神宮を出発し、一軒づつ門付けして町内を周ります。法螺貝と太鼓の音で近くに来たことを知らせます。

法螺貝
新町たかみ獅子の太鼓

たかみ獅子は赤と黒の二頭あり、赤が海の獅子、黒が山の獅子で、それぞれ門付けする場所が決まっていて担当している箇所を門付けして周ります。頭役は二人任命され、海の頭役、山の頭役といて、今回私は家が海側にあることから、海の獅子の頭役として携わりました。

海の獅子と山の獅子
海の獅子と山の獅子

15:00になると、新町大神宮境内外にある土俵に二頭とも向かいます。以前はこの新町まつりに合わせて、相撲大会が開催されていたのですが、今では相撲も開催されなくなったので、せめて小学生たちの下校した時に土俵でたかみ獅子を見せたいという思いから昨年よりお催されました。この土俵は以前、大相撲が巡業で使われた由緒ある土俵でもあり、島内から何百人という観客が大相撲を見に来ていた時代もあったとか。
何故土俵が新町大神宮にあるのかというのも、宮司さんにお聞きしたところ、この新町大神宮の祭神は天照大御神と、天手力男命だそうです。天手力男命はあの天の岩戸を開けた力持ちの神様で、この神の霊脈を受け継ぐのが、力士だといわれています。

新町大神宮の土俵

祭りの門付けは、お花代を頂戴し、神主がお祓いした後、新町大神宮から受け渡された御札をお渡しした後、たかみ獅子が勢いよく玄関に走り、頭を噛む。この一連が門付けとなります。地元のおじいちゃんやおばあちゃんたちは、若者の元気な姿を見て元気をもらえるとお声をいただきました。これも頭役をやらせていただけたからこそ聞けたことです。いいお役目をいただいて、大変感謝しております。

新町たかみ獅子

祭りを終えて思うのが、平日開催にも関わらず獅子に協力してくれた貴重な人材が確保出来たこと。これが一番尊いことだなぁと実感しております。
この佐渡島は年々人口が減り続け、こういった伝統芸能の運営もままならない地域が多数ある中、時間を割いて新町たかみ獅子に入ってくれた仲間たちに本当に感謝いたしております。この場を借りて御礼申し上げます。

また来年も10月16日に元気よく開催したいと思いますので、お花代、獅子に入るなど応援いただきたく、何卒よろしくお願い申し上げます。

能面や鬼面などの神事面を手がける面打ち師

渡邊有恒

佐渡島は鬼太鼓や能、神楽など様々な神事が催される島です。この神事に欠かせないのが「面」なのですが、古くから使われている面も、痛みが激しいものは流石に作り直さなければいけません。この面を作ることを「面打ち」というのですが、佐渡で唯一面打ちをされているのが、渡邊有恒さん(80歳+α)。有恒さんは、県展などにも木工作品を出して数々受賞されている芸術家の方です。

能面、鬼面、大黒舞、春駒などに使う面や、獅子頭などお祭りや神事に欠かせないものばかりですが、各地域で必要とされているのに後継者が居ないのが懸念されているようです。

獅子頭
大黒舞

有恒さん曰く、「面なんて簡単さぁ!」と作業の説明をしてくれるのですが、木材が顔の形になっていく工程を簡単そうにやられるのですが、絶対に簡単ではありませんよね。

鬼面

木材をジグソーで削ります。鉛筆書きのところを削っていくのも簡単そうにやってのけます。

面打ち

ある程度はチェーンソーで削った方が楽なんだ。と言いつつ簡単そうにやってのけます。

面打ち

細かいところを写真や現物を見ながら彫刻刀やノミなどで削っていくわけですが、サクサクと削っている様子を見ていると簡単そうに見えますが、道具の切れ味を保つ手入れや、材の乾燥具合など、細かなところを経験とセンスで仕上げていくのだろうと思われます。有恒さんは「な?簡単だろ?」とは言いますけども。

面打ち
面打ち

道具なんてムサシ(地元のホームセンター)に行けば買えるさ。なんておっしゃいますが、おいそれと揃えられるものではありません。

面打ちの道具
面打ちの道具

この日はちょうど依頼者の鬼太鼓の面を打っていらっしゃったので、その様子を撮影させていただきました。写真を見ながらディティールを仕上げていき、完成へと近づいていきます。顔につけた際にピッタリくるようにさらに彫っていきます。

鬼面
鬼太鼓の面打ち
渡邊有恒

そして、目に穴を開けるわけですが電動ドリルで貫きます。その後ヤスリで削り、後ろの目の部分をすり鉢状になるように彫ります。
面打ち
面打ち

昔は木工細工は当たり前のように専門の方がいらっしゃったのでしょうけど、こうした地域の芸能を支えていらっしゃる面打ち師の有恒さんがいらっしゃるおかげで、地元の鬼太鼓が存続出来ているわけであり、これが島外の木工細工をやる方にお願いするとなると、価格面や納期や仕上がりなども変わってくることでしょう。こういった手仕事を担える人材が現れることを切に願いたいです。

鬼太鼓面

地域の祭りで使われている道具を地域で作ったり直したり出来る環境。伝統芸能の保存というのは、こういったことにも目を向けないといけないですよね。
今回はそんなことを識る大変貴重な機会をいただきました。