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小泊白山神社能舞台 屋根補修工事 完成記念 薪能:海人

小泊白山神社能舞台 薪能

2012/6/2の18:30より開催された薪能の演目:海人
房前大臣(藤原房前)が、幼少のころに亡くした母は讃岐国志度津の人と聞かされ、菩提を弔うためその地をたずねると、その浦の海女が登場、自分が房前の母であり、龍宮に奪われた「面向不背の珠」をとりかえした経緯を物語る前段、その土地の住人が前段のストーリーを改めて語る間狂言部分、房前が妙法蓮華経で母の追善供養をしていると、龍女に姿をかえた母があらわれ供養を謝す後段からなる。
wikipediaより引用

シテ:青柳洋子
子方:笠井葵
ワキ:渡辺和夫
ワキツレ:天沢真博
間:北村和雄
後見:村川忠良、村川登志郎
大:渡辺和樹
小:池田三保子
太:逸見良一
笛:高原十糸子
地:八木澤公子、中川範子、矢田由美子、金子美恵、中平昭代、山田光子、坂野恵美子

薪能 海人

13歳の房前大臣は母が亡くなった地、讃岐国房前の地におもむく。従者(ワキ、ワキヅレ)による奈良、津の国、淡路、鳴門の道行きが謡われ、志度の浦に到着。従者がこの地のいわれを聞きたいというと、そこにひとりの海女が登場する。海女は「志度寺の近くに住むけれども、仏道に反する殺生をしている。伊勢や須磨のように風流の心をはぐくむような土地柄でもない。しかし、そんなことをいってもいられない。仕事をしよう」と独白する。

従者が彼女に「海底の藻をとってきてください」と頼むと海女は「空腹でいらっしゃるなら、ここに持っている藻をおあがりください」と応える。従者は「そうではないのだ。海に映る月をご覧になるのに、藻がじゃまになるのだ」という。それを聞いた海女は「昔もそのようなことがあった。海底の珠をとってこいとのことだった」と感慨深かげに言う。その折のことを語ってほしいという従者の頼みに海女は次のように語り始める。
wikipediaより引用

薪能 海人

「今の大臣淡海公(藤原不比等)の妹君が唐の妃になられるにあたって、唐の高宗皇帝から興福寺に三つの宝物が贈られました。そのうちのひとつ『面向不背の珠(釈迦の像が必ず正面にみえる不思議な宝珠)』をこの地で龍宮にとられてしまいました。大臣はその珠を奪い返すため身をやつしてこの地に来られ、海人乙女と契りを結ばれました。そのとき生まれたのが房前の大臣です」と。房前はそれを聞き「われこそ房前大臣である。わが母は志度の浦の海女ときかされてここに来たのだ」と名告る。海女はさらに、珠を取り返したときのことを語る。

「もし珠をとってきたら、この子を世継ぎとしてくださるという約束に、海女は命を惜しまず海中に飛び入ったのです」という語りから地謡にあわせての所作になる。
wikipediaより引用

薪能 海人

薪能 海人

薪能 海人

従者は房前にさきほど海女から渡された手紙を読むように勧める。房前はその手紙をひらく。そこには「十三年の間わたしを弔う人とてなく冥土の暗闇におります。あなたが孝行ならわが闇を助けてください」とある。地謡によって「妙法蓮華経の読誦やさまざまな法要をして善をなそう」と謡われると、龍女に姿をかえた先ほどの海女が登場する。「ありがたいお弔い、なおなお法華経をお誦みください」といって、経にあわせて舞いはじめる。やがて「早舞」になり、「今この経の功徳にて」成仏した礼をのべ、地謡の「龍女成仏、さてこそ讃州志度寺と号し、毎年八講、朝暮の勤行、仏法繁昌の霊地となるも、この孝養と承る(龍女は成仏しました。このように志度寺と号して、毎年の法華経読誦の法要や朝夕の勤行をする仏教の盛んな地となったのも、この房前大臣の親孝行のおかげなのです)」で舞い納め能は終わる。
wikipediaより引用

薪能 海人

薪能 海人

Facebookページの薪能:海人ギャラリーより

ここに役者さんたちの名前を記載しましたが、ちょっとためらいましたが掲載させていただきました。
この方たちは佐渡の誇りです。日夜練習し、この舞台に立つその苦労たるや、ただただ頭が下がる思いです。
佐渡の能はこの方々あっての上演をしているんですよね。

僭越ながらブログよりエールを送らせていただきたいと思います。

佐渡島 薪能のインターネット生中継



Video streaming by Ustream

先日佐渡島の佐渡市原黒の諏訪神社能舞台で行われた、薪能のUSTREAM配信です。
佐渡では毎年6月には薪能が毎週のように上演されます。

今年の薪能の上演予定表はこちらになります。
佐渡観光協会事務局ブログ

以下新潟県観光協会からの記事を抜粋。

佐渡には、現在も30余りの能舞台が残っています。
かつては200以上もあったといわれます。

能が庶民の手によって村々の鎮守の祭りの場として広がっていたことがわかります。
現存する佐渡の能舞台の中でも、県有形民俗文化財に指定されたものが8つ、市指定有形文化財に指定された者が5つあります。

【本間家能舞台】
佐渡能の宗家である本間家の能舞台(県有形民俗)。江戸18年(1885)の建造といわれ、数多い佐渡の舞台の中でも本格派。床下に瓶を埋め、音響効果に工夫が凝らされている。毎年7月の最終日曜に定例能が催される。

【原黒諏訪神社】
佐渡には中世の能面も残っており、江戸時代には能がいっそう広まった。現在も30以上の独立能舞台が残っており、原黒諏訪神社ほか、7棟が県の有形民俗文化財に指定されている。

【潟上牛尾神社】
潟上の天王さんと呼ばれる神社で、拝殿の彫刻が見事。鬱蒼とした境内に能舞台があり、6月には薪能が舞われる。国仲四所の御能場の一つだった由緒ある舞台(県有形民俗)で、勧進能を催したときに寄進されたと思われる素晴らしい翁の面(県有形)がある。

【武井熊野神社】
杉林の中の神社。舞台は明治2年に建てられたもので、建築物としても素晴らしい。見どころは蟇股(かえるまた)で、板ながら形が良く、彫られている文字も美しい。(県有形民俗)

【安養寺羽黒神社】
現在は山の中腹といった所に建っているが以前は上の社殿と向かい合っていたという。それを明治42年に現在地に移築した。この舞台も絵になる。3間に2間の小さな舞台だが橋掛りもあり楽屋もある。緑の芝生と茅葺の屋根のコントラストが心地よい。絵にしたい風景。(県有形民俗)

【竹田大膳神社】
かつて国仲四所の御能場の一つで、茅葺屋根の能舞台があり、幽玄な薪能が例年行われている。この能舞台は佐渡を代表する1つで、気品のある美しさは、周囲の木々と芝生の緑と相まって、建物だけの鑑賞も十分堪える。(県有形民俗)

【草苅神社】
古く草刈村といわれた字天沢にあり、江戸中期頃は八王子牛頭天王、羽茂祇園社などといわれ、この郷の農業の神とされている。応永3年(1396)の墨書のある獅子頭があり、地頭寄進で大神楽つぶろさしの最初の獅子だとも言われる。能舞台は古く、かぶき屋根が美しい。(県有形民俗)

【ニ宮神社】
順徳上皇の第二皇女(忠子姫)が18歳で亡くなられた折、守屋勇四郎春虎が遺髪を霊としてまつったが、後深草帝の時代に二宮大明神として社殿が築かれたといわれる。菖浦殿と能舞台がある。


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